変えない勇気。
2016年 03月 11日

道端に「ご自由にお持ち帰りください」と。
趣味の良い古いうつわの数々。
お引越しか何かで処分されているのかな。
その中から、モダンな四寸取り皿を三枚、ありがたく頂いてきました。

毎年北野の天神さんで行われる舞の奉納行事、
そのノベルティとして配られたお皿だったようです。
一方、
夕方からは、近所の児童公園が取り壊されるということで、
市の職員さんや関係部署の説明会に、ゴンとまめぴーと共に行ってきました。
縦割り行政とはまさにこのことか、と社会の縮図を見るような、
空虚な謝罪の言葉とは対照的な住民の熱い声。
今朝の新聞に載っていました。

すてる、やめる、とめる、とりけす。
ここのところ、そんな潔い決定が、諸手を挙げて歓迎される空気があるとおもう。
人間関係にも、社会にも、物と人とのかかわりにおいても。
当然、間違いに気づいたなら、既存の取り決めを壊し、
よりよいやり方を打ちたてるのは、リベラルなやり方だと思うけど、
とにもかくにも問題があるなら捨ててしまえばいい、やめてしまえばいい、
というのにも、何だか釈然としないものがあって。
確かに原因そのものをなくしてしまえば、問題は起こらなくなるけれど、
そこに付随していた良いもの、悪いもの、ひっくるめた思い出や、
それらを維持させてきた人間の知恵とか、受け継いできた文化みたいなものまで消えてしまう。
それって、ちょっと寂しいこと。
分かり合えないから、分かろうとする。
力が及ばないなら、努力する。
問題があるなら、他のやり方を試してみる。
それが人間らしさなのではないかなと思うのです。
しょうがない、めんどくさい、で終わらせないための知恵や勇気を持ちたい、
そう思った震災五年目の朝です。