子どもに愛情をかけるということ。
2017年 09月 01日

ここのところ、忍者熱はすこしだけ落ち着いて、
ちゃーちゃんとのおそろいコーデがブームのまめぴー。
とはいえ、おそろいにできるアイテムもあまりなく、
ちょっと悩んで「ちゃーちゃんの着てみる?」と提案してみたら、
おおよろこび(笑)
わたしが寝巻きにしている無印のカットソーが色違いでいくつかあるので、
それをおそろいで着ることにしました。
毎夜毎夜、このとおり小さいちゃーちゃんが出没しております。

この間、きらり。vol.3に掲載する対談で、
マリアさんと話題になったことが、「子どもへの愛情のかけ方」。
たとえば、
先回りして危険を回避しようとか、嫌な思いをさせないでおこうとか、
いい環境を与えてあげようとか、子どもによかれと思って親がやること。
それはたぶん、親が子を思う愛情からくる行動です。
か弱い立場にある子どものために、
汚い世の中のことを何も知らない無垢な子どものために、
どうすれば不安をなくせるかと悩み、できるだけベストと思われる道をさがす。
その行為はとても美しいもののように見えます。
だけれど、うーん、ちょっと待って。
それはもしかすると、親のエゴなんじゃないかな。
そんな話をふたりでしました。

いけてみると、意外とかっこええやん!
わたしの母はとても愛情深いひとでした。
わたしを愛するがあまり、なんでも先回りして防御策をかんがえ、
悪い友人からの手紙は破って捨て、風邪をひかせないようにと厚着をさせる。
けれど、わたしはそれらがとても息苦しくもありました。
わたしは自分のやりかたがあるのに!
子ども扱いしないでよ!って。
わたしのことを考えてくれることはとてもうれしいのだけれど、
それらの行動の裏っかわには「わたしが(母が)心配したくない」
という気持ちが透けてみえたから。
それでも、
わたしが母の愛情を感じた体験はいくつかあります。
食べたいといったおかずをお弁当に詰めてくれたこと。
童話に出てくる少女と同じ髪型にしてと頼んだら、してくれたこと。
冬の寒い日に、たこを飛ばしに河原まで一緒についてきてくれたこと。
たぶん母にしたらしょうもない、きまぐれのようなことで、
きっと記憶にもないようなことでしょう。
けれど、
些細なことほど、他人からみればどうでもいいことほど、
かなえてくれたときのうれしさは今も鮮やかによみがえるのです。

また別の日、友人たちとお酒を飲みながら話していたとき、
同じような話題になりました。
その友人のうちの1人は男性で、とても子煩悩なひと。
彼が言った言葉が印象にのこっていて。
それは、
「子どものどうでもいいリクエストほど、素早く叶えてあげるようにしている」
というもの。
そうそう、それ!
わたしも思わずひざを打ったなあ。
たぶん、子どもの悩みを親が勝手に悩んじゃいけない。
どれだけ親が悩んで出した答えがあったとしても、
最終的にきめるのは子ども自身。
それに、
子どもは自らのびようとする力をもっている。
親はそれをしんじて、土をたがやし、水をあげて見守るだけ。
おおきく成長しようとするときには、外でじゅうぶん頑張っています。
その反動で、家では甘えたくなるもの。
自分が疲れたとき、傷ついたときに戻る場所があるかどうか、
確認するために、子どもは親たちをためすのではないでしょうか。
しょうもない、ちいさなリクエストを出して。
そんなときは、ぜんぶは無理でもひとつぐらい、
「ちゃーちゃんにまかしとき!」って言ってあげられたらいいな。

おーい、うしろまえ逆だよ~(笑)