わたしが診断を受けない理由。
2017年 09月 15日

先日の生活クラブでのトークイベントでは、
お食事後、みなさんと1対1でお話させていただく機会がありました。
手づくりのこと、保存食のこと、石けん生活、片付けのことなど。
ざっくばらんにおしゃべりできて、楽しかったです^^
ふだんブログや書籍をよく読んでくださっている方もいらして、
そのことでご質問をいただいたり、「ここが心に響いた!」と感想を伝えてくださったりして、
うれしかったなあ。
また、発達障がいについてのご質問もありました。
そのなかで印象的だったのが、
「なぜゴンちゃんは診断を受けないのですか?」というご質問。
わたしはゴンが発達障がいだと思っています。
けれど、診断は受ける必要がないと思っています。
診断がおりているかおりていないかは、別にどっちでもよくって。
それはわたしにとっては当たり前のことなのだけれど、
どうもそうではない方が多いのかなあ?という気付きがありました。
そのときは、時間がせまっていてあまり詳しくお答えできなかったので、
改めて整理して書き記しておこうと思います。

このブログでは何度かお知らせしたことがありましたが、
ゴンの発達に凸凹があるのかな?と最初に気付かされたのが1歳半の検診。
そして、5歳のとき保育園の先生から「集団生活になじめない。独自のこだわりがある」と
受診をすすめられ、発達障がいという言葉を知りました。
当時は、正直とまどいました。
ゴンがどこか普通じゃないことはわかっていたし、
ただマイペースなだけで、それが障がい(=社会とのおりあいがつけられない)
レベルではないと思っていたから。

けれど、
それから専門家といわれる人の本を読んだり、
カウンセラーの友人にアドバイスをもらったり、当事者の友人に体験談を聞いたり・・・
目の前のゴンのありようを見つめながら、同時に、
色んな方面から発達障がいについて知るようになって、気付かされることがありました。
障がいは決してゴン本人の問題なのではなく、環境との組み合わせの問題、
すなわち、社会の側に原因があるのではないだろうか、と思うようになったのです。
実はゴンは、小学校に入ってしばらくして「発声」についても、
担任の先生から指摘を受けています。
それは、
「さしすせそ」が「たちつてと」に似た発音になってしまうというもの。
たとえば、「しろ」が「きろ」に聞こえたり、
「おすし」が「おすき」に聞こえたりするのです。
それを気にした先生、
「ぜひ発音の訓練を受けさせてください」とのこと。
舌ったらずだと、同級生からからかいやいじめの原因になるし、
本人も困るだろうから、と。
早めに対応すれば早く改善されるのだともおっしゃっていました。
へえ、そんなに手厚くしてくださるんだなあ、とびっくり。

近くにいたお父さんが快く貸してくださいました。ありがたいな~
ただ、実際どのように訓練を受けるかを聞いてみると、
一週間に二度ほど授業時間中にほかの学校に移動し、特別な授業をうけるらしい。
ということは、その間通常の授業は受けられないってことです。
うーん、それってどうなのかな?
でも、先生も心配されていることだし、受けておくのに越したことはないかも、
と思って「どうする?」とゴンに聞いたら、
「べつに(さ行が言えなくて)困ってないし、めんどくさいからイヤだ~」
との答えだったので(笑)
先生のありがたい申し出はお断りし、
結局、なにもしないまま月日がたちました。
問題の「さ行」はいまだにちょっと怪しいところはあるものの、
前よりは格段聞き取りやすくなってきたみたい。
友だちなどに通じないときにはゆっくりしゃべるようにしたりして工夫したり、
友だちのほうも「さしすせその、し?」などおぎなってくれているよう。

だとすれば、です。
もしその特別な訓練をうけていたとしたら、
わたしは「訓練のおかげで発音が治った」と思い込んでしまったかもしれない。
また、
大げさにいえばそれは、ゴンが自分なりに工夫する機会を失ったということ。
友だちのほうだって「どうすれば分かってあげられるだろう」と
知恵を働かせることもなかったのではないでしょうか。
以前記事にしたまめぴーの低身長にも、同じようなことを思います。
たぶん、いろんなことが詳しく分かりすぎるために、
本来気にならなかったり、差があったとしてもたいしたことじゃないことまで、
「問題」になってしまうことが増えたのではないかな。
身長が低いことは、外的な原因(環境や食べ物など)もあるだろうけど、
おそらく遺伝的なことです。
そしてそれは、自然なことです。
自然とは、「選べない」ことです。
人がいつ生まれ、いつ死ぬか選べないのと一緒です。

「小さいままだとかわいそうかな・・」
「大きくなって治療をうけなかったことを責められるかも?」
そんな気持ちもよぎりました。
けれど、それは果たしてほんとうに「子どものため」なのかな?
いや、ちがう。
わたしが不安だから、じぶんの不安を解消したいだけだ。
そう気付いてから、あえて無理な検査はせず、
積極的な治療はしないでおこうと思うようになりました。
もちろん、
病的なものが原因だったり、ほかの理由があれば、
それらとむきあうことは必要かもしれない。
でも、彼なりのペースで成長しているのなら、
気にはしつつも様子をみておこう、と。
だって、まめぴーはいま、
自分が小さいことをみじめだとは決して思っていないはずです。
なのに、
「小さいままだといけない」「人並みにならないとかわいそうだから」
という周囲のまなざしによって、やがて気にするようになるかもしれません。
コンプレックスは自分のなかに生まれるのではなく、
他人のまなざしを取り込むことで生まれるのだから。

だからわたしは、診断も受けません。
手厚い「治療」や「支援」の名の下で、
今のゴンにとって不要な「負い目」を味わわせたくない。
問題が起こってから、そのときどうすればいいかを考えればいいのだから。
もちろん、
症状別に細かく分け、あとは専門家におまかせ、といった今のやりかたは、
一見とてもきめこまやかでていねいに見えます。
けれど、
発音の訓練や低身長の治療のように、
標準からはずれた子どもを「ふつうに近づけてあげよう」という大人のエゴからくる押し付けが、
かえって子どもを苦しめてしまうかもしれないということは、
いつも頭の片すみに入れておきたいのです。
また、
本来は子ども同士で助け合い、苦楽をわかちあいながら、
お互いの「違い」を理解していくことが「育ちあう」ということ。
それなのに「ふつう」と「ふつうじゃない」にラベルわけすることで、
子どもたちが育ちあう機会を、もしかすると奪っているんじゃないかな。

わたしのこの考えを「危険」と思われるひとも、
いるかもしれない。
なんて無責任なんだ、とも言われることもあるかもしれません。
けれど、
なんでも白と黒にわけてしまうのではなく、
「どちらでもない」という選択肢もあっていいのではないかな。
何が善で何が悪かをジャッジし続けるよりも、
この子の目が今なにを見つめているのかを、となりに座ってかんじとること。
そのことのほうがずっと、
大切なことのように思うのです。