まめぴー、二泊三日の宿泊学習へ。
この日のために体調万全、
事前学習は全て参加して、
荷物も前日に二回もチェックして、
それはそれは楽しみにしてた。
なのに前日寝る前、
「やっぱり行きたくない」
と猫を抱いてほろほろと泣く。
小一時間話を聴くと、
学校に行けなくなったきっかけの一つでもある、
2年生のころの完食指導が
脳裏に焼きついて離れないのだと。
彼はどうしてもマヨネーズが食べられないのだけど、
その当時の担任の先生の指導でサラダを食べ、
嘔吐してしまったことがあったのです。
それ以来給食はもちろん、
大勢で食事をすることが苦手になってしまって。
今回も、もし全部食べられなかったら。
友人や先生に責められるのでは。
そう思うと、
恐ろしくて悔しくて泣けてくるんだと。
夜中も、
何度となく目を覚ましては
またさめざめと涙を流す。
いつも弾けるような明るさで、
周りを照らしてくれる彼が、
こんなになるまで。
ほんとに辛い思いをしたのだな。
先生たちには充分事情を話してあるので、
完食できなくても問題はないこと。
繰り返しこんこんと伝えました。
それでも出発の寸前まで沈んだ顔。
ふと思いついてアトリエに走る。
カットソーの端くれを引っ掴んで、
型紙もなしに適当に鋏を入れて、
へなちょこステッチ。
彼の名前を裏に刺繍した、
つぶらな瞳のタマゴちゃん名札。
「お守りやで」
辛くてたまらんくなったらにぎにぎしてや。
どうしてもあかんかったら
いつでも駆けつけるからな。
最後の仕上げに私のチークをつけてあげたら
「笑ってるみたいや!」
うん、あなたも笑っとるよ。
凛とした表情で出発したまめぴー。
そして3日間の日程を終え、
帰ってきたその顔はほっと力が抜けていて。
もちろん「寂しかった!」なんて泣きつくこともなく。
「ごはん3回もお代わりしたんやで」
「お味噌汁の喉越しがやばかった」
「ささみフライ絶品やねん」
宿泊学習の感想が、
あんなに心配していた食事のことばっかりやん!
ほんまよかったなあ。
これを機に、
給食の指導について改めて考えを深めたことがいくつか。
もちろん指導そのものは、とってもとっても大事なこと。
食物そのものへの敬意や作る人、料理する人への感謝。
食べたものが健やかな体を作るのだということは、
わたしも子どもたちに折に触れて伝えていきたいこともあります。
でもそれが「強制」になってしまったとたん、
正しさが牙をむきはじめる。
次第に子どもたちは「食べられない自分」に
罪悪感を持つようになってしまう。
また、食べられる人にとっては、食べられない人のその苦痛が、
いかほど辛いものであるかは想像しにくいもの。
じつはわたしも小学生のころ食が細く、
給食の時間が苦痛で。
さすがにまめぴーの場合では、
昔みたいに掃除のホコリが舞う中食べさせられたり、
盛り付けの量を減せなかったということではないようだけど…
それでも
「食べられないことは悪いことなんや」と自分を責めるぐらい
彼が追い詰められてしまったのは事実。
今回まめぴーが食事の問題をクリアできたのには、
思い当たるふしがあって。
それは、勇気をふりしぼって「いやだ」と伝えたことを、
理由も聞かず尊重してもらえたこと。
まわりに食べることを強いられなかったこと。
「みんなと安心して食べられる」を取り戻せたのだと思う。
宿泊学習では食べるものを「自分で選べた」のも大きかったのだろうな。
(山の家の食事はビュッフェか自炊)
やっぱり「尊厳」はあらゆることに優先されるものなんだ。
学校という場でなくしかけていた自信を、
同じ学校という場でよみがえらせることが出来たのは、
まさに僥倖としか言いようがなくて。
もちろん食事以外ではしんどいことも辛いこともあったようだけど、
ほんのり陽に焼けた顔はとても満足げだった。
そういえば、彼がかばんにつけてたタマゴちゃんもちょっと黒くなってたな^^
「おかえり」のとき手渡したおかあさんタマゴ、
うれしそうに枕元に置いて寝てくれた。
まめぴー、おつかれさま。
そして、私もひとつ、
あなたといっしょに成長させてもらったみたいな気がするよ。